+強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜<散花編>+ |
川は穏やかに流れ、鳥たちはさえずり、花は咲き乱れ、繰り返される日々の中に、趙雲は秦からの使者としてこの漢の国にいた。 初めてこの国に足を踏み入れて、どれだけの日々が流れたか。 本来、使者はその役目を終えると、早々に自分の国へと変えるものである。 自分の仕事に忠実な趙雲ならなおのこと。 しかし・・・。 趙雲は、この国から帰れないでいた。 その胸を締め付けるものの存在を、趙雲は確かに知っていたから。 その部屋に光を放つものは何もない。 ただ、月の光だけを頼っていた。 互いの顔がやっとのことで見えるその明るさは、夜には心地よい。 ここは、甄姫の寝室。 ふいにその明るさが途切れる。 月が雲に隠れたらしい。 甄姫の髪を梳いていた男の手が止まる。 「そろそろ来るのではないですか。甄姫様」 甄姫は目の前の机から、美しく装飾されたグラスを手に取りながら言う。 「そのように楽しい顔をするのはおよしなさい。 張コウ 」 「それに比べて、甄姫様は、憂鬱なご様子」 再び手を動かし始める張コウ。 「当然です。このようなことが曹操様に知られたら・・・」 甄姫は、グラスのワインに映った自分の顔をじっと見つめていた。 「けれども、あの方も止めることは出来ないのでございましょう。ご自分のお気持ちを。甄姫様のその美しさ、罪にも等しいものでございますから」 甄姫は、グラスから目を逸らす。 そして、ワインを口に含むと、静かにグラスを机の上に戻した。 「からかうものではありませんよ。私が美しいはずがありません。貂蝉様を御覧なさい。あのような方を美しいと言うのです」 「なぜ、そのようにお思いでございますか・・・」 「あの曹操様が選ばれた方だからです」 それに言葉を返すことはせず、髪を梳き終えた張コウは扉へ近づいていく。 そして、その扉背をつけた。 「いらっしゃいましたよ。趙雲様が・・・」 それだけ告げると、さっと部屋の隅へ足を向けた。 甄姫は椅子から立ち、目線を扉へ移す。 「甄姫様・・・」 低く、けれども夜の闇と同化してしまいそうな細い声が、扉の向こうから聞こえた。 慣れたように、甄姫はその声の方向へと近づく。 そして、何か大切なものにでも触れるかのように扉に手を当てた。 「趙雲・・・」 「ここを開けてくださいませ。甄姫様・・・」 恋焦がれるように、その声は扉を越えて甄姫の体を包み込む。 甄姫はとっさにその声に背を向けて答えた。 「何を言うのです! その様なことが許されるはずがありません。私はこう見えても、この国の権力者である曹操様の側室。この命を捧げる相手は、曹操様だけと誓った身なのです」 毎夜、繰り返される同じ言葉の取引を、張コウはため息交じりで聞いていた。 趙雲が使者としてこの国に来た夜から、それは始まった。 「そのようなこと、十分過ぎるほど承知いたしております。この想いが、高すぎる身分の果てにあることなど・・・。けれども、甄姫様は私にどうしろというのです・・・。毎夜、この想いが胸を締め付け、私に安らかな眠りが訪れることはない。いっそ、恋に焦がれ、この身が滅びることを何度願ったことか・・・! 想いばかりが先走り、こうして貴女様の元を訪れるけれども、その想いを遂げることが出来ぬ悔しさともどかしさ、そして、情けなさに、幾度自分を責める立てるか・・・。貴女様はご存知ではないのだ・・・!」 その声は、涙を流しているのかと思うほど、小刻みに震えていた。 「私がそのようなことを知ってどうしろと・・・? この扉を開け、貴方の境遇を哀れみ、そして、その想いを受け止めればよいのですか・・・? ・・・私には出来ません・・・。曹操様を裏切るなど。この身が打ち砕かれようとも、そのようなことはありません・・・!」 まるで自分に言い聞かせているかのように、強く、甄姫は言う。 「・・・なぜ、貴女様は曹操様に全てを差し出すのか・・・。曹操様を裏切れば、その命がなきものにされてしまうからでしょうか・・・」 「いいえ・・・。そのような単純な問題ではありません! 私の命は、曹操様のものなのです。そう・・・。8年前のあの日から・・・」 「8年前・・・? 8年前に何があったというのです・・・」 「あの日、曹操様は私の家に攻めて来られました。そして、父の命を奪い、母の命を奪い・・・。けれども、最後に一人残った私の命を、あの方は助けてくださり、そして、側室という、このような地位を、私に下さったのです・・・」 甄姫は、かたく目を閉じる。 そう、今でも、まぶたの裏に蘇るのは、決して薄れることのない、あの日の鮮やかな記憶。 ただひたすらに母の死を感じ、この身を曹操に預けることを覚悟した、あの日の記憶であった。 「それでは、甄姫様にとって、曹操様は言わば親の仇ということですか・・・?」 「そうではございません! 曹操様に対する無礼は、許しませんよ! 曹操様には、一瞬たりともそのような思いを感じたことなどございませぬ!! もとい、この世は戦乱の世。殺されてしまえば、それで終わり。殺されたほうが、必然的に敗者でしょう」 母の死を思い出し、涙する夜もあった。 父の死に立ち会えなかったことに、悔しさを覚えた日もあった。 しかし、曹操に憎しみを抱いたことはなかったのだ。 曹操に罪があるわけではないことを、甄姫は知っていたから。 甄姫の父親も、ある時は曹操のように、人の血で血を洗う、卑劣な行いをしていたことを、甄姫は痛いほど知っていたから。 憎むべきものがあるとしたら、きっとそれは、あの時母と共に死ねなかった、甄姫自身だろう。 「申し訳ございません・・・。けれども、あの日、私が初めてこの漢の国へ足を踏み入れたとき、曹操様は甄姫様をお呼びになりました。私は、その時、貴女様が曹操様に向けた笑顔が、心から離れないのでございます。あの時の貴女様の笑顔は、確かに・・・、確かに、曇ってらっしゃいました。精一杯美しい笑顔を浮かべていた貴女様が、私には痛々しく感じられたのです。本当に、甄姫様は曹操様を愛しておられるのでしょうか・・・」 ―――愛しておられるのでしょうか。 その言葉が、激しく甄姫の耳元で響いた。 曹操を愛しているか・・・。 甄姫でさえ、その問いを自分に投げかけたことはない。 けれども、確かに、その答えを甄姫は持っていた。 しかし、それを口には出せない。 口に出してしまえば、この扉を開けてしまいそうな、そんな予感を有していたから。 「貴方にその答えを差し上げる義務など、ございません。・・・愛してるなど・・・。・・・さあ・・・。もう、お帰りになってください・・・。そして、二度とここへ貴方が来ることのないよう・・・」 「やはり、甄姫様は私を受け入れてはくださらないのか・・・」 求めても、求めても、手に入れられぬこの想いに悔しさは募るばかりである。 そして、何よりも悔しいものは、拒まれても諦めることのできぬ、自分自身であった。 初めて甄姫を目にしたあの日を忘れることは出来ない。 自分の血が逆流してしまいそうなほどの衝撃に駆られ、甄姫を求める気持ちが一気に募ったあの日。 その夜、このような初めての想いに、戸惑い、魅せられ、気が付けば、この扉の前にいた。 辺りに咲く、花の色香が、より一層この気持ちを駆り立てたのを記憶している。 「当然です・・・」 甄姫の答えは、冷ややかな、けれども重い言葉であった。 「どうすれば・・・! どうすれば、私を受け入れてくださるのか・・・!!貴女様は・・・」 「・・・例えこの世が滅びようとも、私が、貴方を受け入れるなどということはありません・・・!」 鋭い甄姫の言葉により、趙雲にある感情が生まれた。 それは、愛しすぎ、求めすぎた想いの果てかもしれない。 「・・・曹操様から解放されたとしてもですか・・・?」 「あの方から、解放・・・? 何を勘違いしていらっしゃるのかしら。私は、あの方から、束縛など受けてはおりません。そう。私は、扉の開いた籠の中の鳥なのです。けれども、もし・・・、その籠がなくなってしまった時は、・・・私の命が消え去る時・・・」 「な・・・ぜ・・・。そこまで・・・!」 趙雲は、視界が暗くなるような気がした。 これほどまでに思い通りにいかなかったことが、今まであっただろうか。 今まで、楽しいばかりの人生であったとは言いがたい。 けれども、これほどまでに、少なくとも、今のように、醜い感情ばかりが自分を取り巻くことなどなかった。 「さあ・・・。もう、お帰りなさい・・・」 「しかし・・・!」 「早くお帰りなさい!!」 何か言おうとしたが、それを激しい甄姫の言葉で遮られた。 ここまできつく言われたら、後はもう、引き下がるしかない。 「・・・。分かりました。けれど、また来ます故・・・」 そう言うと、趙雲は静かな足音を響かせ、その場から去っていった。 それを確認すると、甄姫は深いため息をつく。 「お疲れのようですね・・・」 再び、張コウが甄姫の前に現れる。 「ええ・・・。今夜は特に・・・」 そっと扉から離れ、寝所の方へと足を向ける。 「ここは、扉の開いた籠ですか・・・」 その言葉で、甄姫は足を止めた。 「・・・。扉が開いているのに飛べないなんて、情けないことね・・・。いっそ、束縛されたほうが、どんなに楽か・・・」 「・・・もう、お休みでございますか・・・?」 甄姫は軽く頷く。 「ねえ・・・、張コウ・・・」 「何でございましょう? 甄姫様」 「愛とは、一体何なのでしょうね・・・」 主人の言葉に、張コウは、困った顔で微笑む。 「さあ・・・。私には、分かりかねます・・・」 「そう・・・、そうよね・・・」 甄姫は、飲みかけのワインを手に取った。 「けれども・・・。きっと、強き想いなのでございましょう・・・」 「強き・・・想い・・・」 「はい・・・。それでは、お休みなさいませ」 光の破片のような言葉を残し、張コウはその部屋を後にした。 張コウが去った後の扉を、甄姫はじっと見つめる。 ここから飛び立つ勇気があったなら・・・。 この想いを果たす激しさがあったなら・・・。 強き想いの果ての答えが見つかるのかもしれない。 ―――それは、ただの、夢だけれど・・・。 >>>強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜 <白昼夢編>に続く。 |
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