+強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜<白昼夢編>+ |
私には翼がない。 飛べなくなったのはいつだったか。 いや、初めから、そんなものはなかったのかもしれない。 私は、空からの景色を知らないから。 けれど、あの日、翼が現れた。 あまりにも眩しい翼が。 それは、穢れなき鮮やかさを持ち、私の醜さを確信へと変えていく。 止めなければ・・・。 この足が、大地を離れる前に。 でなければ・・・、私はきっと禁忌を犯す―――。 不穏でないざわめきが、外を過ぎる午後。 「甄姫様・・・! どこへ参られるのです・・・!」 足早に歩いていく甄姫を、張コウは慌てて呼び止める。 「曹操様のところです。張コウ、あなたもついてきなさい」 張コウに目を向けることもせず、甄姫はただひたすらに前を見据えていた。 このような甄姫を、今までに見たことがない。 もとい、曹操のところへ自分から足を向けることはなかった甄姫である。 「曹操様のところへ・・・? ・・・分かりました、お供いたします。しかし、一体何のために・・・」 その顔からは、殺気さえ感じられる。 「翼を切り落としてもらうのです」 その言葉に、張コウは目を見開く。 張コウは、翼の意味を知っていた。 「翼・・・を・・・!? 甄姫様・・・。本当によろしいのですか・・・」 甄姫は、軽い笑みを浮かべながら、張コウの問いに歩調を緩める。 「変なこと聞くのね。私がどんなにそれを恐れているか、知っているでしょうに」 確かに知っている。 毎夜、甄姫の心を痛める翼の存在を、張コウは知っていた。 けれども、その恐れの裏に隠された甄姫の感情に確信を持てないでいた。 「はい・・・。存じております・・・。しかし・・・、甄姫様は、空の世界を見たいとは、お思いになりませんか・・・」 甄姫の足が止まる。 「いいえ・・・と言えば嘘になるわね、きっと。けれども、私がここから飛び立つためには、あまりにも沢山の犠牲を伴いましょう。そのようなことを知りながら、私だけが行くことなどできません・・・」 「甄姫様・・・。しかし、それでは・・・」 あなたはいつ救われるのか・・・。 全身に風を受ける心地よさも、雲を割り自由に飛ぶ快感も、この人は覚えることはないのだ。 再び歩き出す甄姫の背を見つめながら、張コウも歩き始める。 「よいのです。それに、張コウ、あなたは私の心の内を知っているでしょうに。それは、あまりにも簡単なこと・・・」 それは、甄姫が張コウの言葉を察した結果の言葉であった。 「やはり、甄姫様は・・・」 「・・・ええ・・・」 自分の考えが真実であったことに、張コウは確信を持つ。 いつの間にか目の前にある曹操の部屋の扉にそっと触れる甄姫。 「さあ、参りましょう」 そう言うと、甄姫は丁寧にその扉を開く。 そして、深く頭を下げながら、言う。 「曹操様。私、甄姫でございます。今日は、お願いがあり、こうして参りました」 「甄姫か・・・。珍しい」 曹操の言葉と共に頭を上げた甄姫の目に映ったものは、曹操と、それに寄り添うようにして隣にいる、二人の女の姿であった。 きっと、多くいる側室の中の二人であろう。 右手を一人の女の腰に、左手をもう一人の女の肩においている。 しかし、甄姫は、その様子に何の反応も見せず曹操の前まえまで来ると、再び深く頭を下げた。 張コウは、その斜め後ろに、片膝をつき控えている。 「曹操様、翼を・・・いえ、使者、趙雲を、奏の国へお返しくださいませ」 「ほう・・・。なぜ、そのようなことを言う」 曹操は面白そうに、不敵な笑みを漏らした。 「はい。本来、使者というものは、こんなにも他の国に長く滞在することはありませぬ。しかも、帝の傍ではなく、あなた様の傍にこのように長く留まるなど、我が国の帝が不信感を抱くのも時間の問題」 そう言った甄姫には、覚悟にも似た感情が生まれていた。 「なるほど・・・。私のためを思い、こうして来たというのか・・・」 「はい・・・」 曹操は、今まで甄姫に向けていた視線を張コウへと移した。 片膝を立て、深く頭を下げていた張コウは、その鋭い視線に気付き、ゆっくりと頭を上げる。 「張コウ、近頃蜂を見かけぬか・・・」 ふいに何の脈略のない言葉を投げかけられ、張コウは戸惑いを隠せないでいた。 「蜂・・・でございますか。最近は、寒くなってきておりますゆえ、蜂は見かけませぬが・・・」 曹操の瞳の奥に、何か黒く光るものの存在を感じたが、それに触れば、取り返しのつかない結果になる可能性が高いことを張コウは感じていた。 そんな張コウの思いを知ってか知らずか、なおも曹操は続ける。 「甘く、美しい蜜を求めてやってくる蜂がいるような気がするのは、私だけか・・・」 「申し訳ございません・・・おっしゃってる意味が分かりかねます・・・」 「花は甄姫・・・と言えば分かるか」 甄姫と、張コウの体に、大きな衝撃が走る。 知っているのだ。 曹操は、何もかも知った上でこうして言葉を濁しているのだ。 「曹操様! お戯れはお止めくださいませ。張コウが困っております」 「張コウ、困っておるか」 「・・・いえ・・・」 曹操に対して、どうして困っていると言えよう。 その言葉を口にした時は死を意味することを知りながら。 甄姫は、緊迫した表情で、張コウに視線を送っていた。 間違いであったのか・・・。 ここに、こうして来たことは・・・。 「では、もう一度聞く、蜂を知っているか」 「存じませぬ・・・」 決して崩すことのないその態度を見ながら、曹操はゆっくりと立ち上がった。 そして、自分の先にあるものに向けた視線を辿るように歩き、その足は張コウの前で止まる。 曹操は、片膝を曲げると、張コウの耳元へ自分の唇を寄せた。 「命をかけ、知らぬと言えるか・・・」 言葉の意味とは裏腹に、その声は、まるで歌っているように優雅なものだった。 張コウは、曹操の鋭い眼差しを受け止めることが出来ずに、思わず視線をそらす。 けれども、相手がどのような存在であったとしても、どのような言葉を投げかけられたとしても、甄姫に害が及ぶ答えを返すことは出来ない。 例え、その結果が命を失うことであったとしても。 それが、この気高い人に仕える誇りでもあるのだから。 「・・・・・・はい・・・」 元の場所へと戻っていく曹操の足音を聞きながら、張コウは吐息交じりの声でそう答えた。 「お止めなさい。張コウ。もう・・・よいのです・・・」 何もかもを受け入れたかのような、そんな穏やかな声が、曹操と張コウの間を横切る。 「甄姫様・・・。しかし・・・!」 「曹操様・・・。私が花というのならば、蜂は確かに蜜を求めて訪れます。しかし、その花の命は、曹操様、あなた様の手の中にございましょう。蜂に渡す蜜などはございませぬ」 張コウの言葉を遮るように、甄姫は曹操の目をしっかりと見据えて言った。 今まで私が飛ぶことが出来なかったのは、自分自身のせいだったのかもしれない・・・。 自分で、翼を切り取ったのかもしれない・・・。 ―――空の世界を見たいとは、お思いになりませんか・・・。 ここへ来る前の、張コウの言葉だ。 私はあの時、犠牲を知りながら行くことは出来ないと答えた。 けれども、本当にそうであったのか。 飛ぶのをためらっている本当の理由は、この胸の奥にずっと居座り続けている「恐れ」、ではなかったか。 新しい世界へ行くことへの。 そしてなによりも、自分の本当の思いに苦しむことへの。 「曹操様。蜂というのは、どなたのことですの?」 曹操の隣にいる女の、あまりにも無邪気すぎるその声に、甄姫は、はっとする。 「お前も知っているはずだ。奏からの使者、趙雲を・・・」 「まあ・・・。あの使者・・・」 趙雲が初めてこの国を訪れた時にでも見たのだろう。 「甄姫様は、使者殿と仲がよろしいのですね」 今度は、曹操の反対側に座っている女が、甄姫に言葉を投げかけた。 「いいえ。そのような訳では・・・」 「曹操様だけでは、ご満足なさらないのね。私は、もう、曹操様しか目に入りませぬのに」 そう言いながら、その女は、甘えるように曹操の腕へ自分の身を寄せる。 曹操はそれに気付くと、女の腰に手を回し、更にその体を自分の方へと引き寄せた。 「本当に。お元気なことですわね、甄姫様」 甄姫は、その言葉の数々を、ただ受け止めることしか出来なかった。 言い返す言葉が見つからない。 言い返せないのだ。 趙雲にきつく拒む言葉を投げかけようとも、この心は、飛び立つことへの期待をまだ宿している。 「本当に・・・。うらやましいこと・・・」 けれども、それは、甄姫の心の内だけのこと。 趙雲は、甄姫の部屋に入ったことも、手に触れたこともない。 「いいえ・・・。私と使者殿は、そのような関係ではございませぬ」 納得のいかない女たちは、真実を求めて曹操の顔を覗き込む。 「だ、そうだ」 曹操は、それだけ言う。 女たちは、それを聞き、腑に落ちない表情を残しながらも、お互いに顔を見合わせた。 「あら、そうでございますの。私はてっきり・・・ねえ・・・」 「ええ・・・。甄姫様と使者殿が、親密なご関係とばかり・・・」 曹操は、そんな二人の会話など聞こえていないかのように、自分の手のひらを見つめながら言う。 「甄姫、花の命は、この手の中にあると言ったな・・・」 「はい・・・」 「確かに、この手の中にそなたの命がある。あの日から、ずっと・・・。けれども、手というものは、その命を縛り付けることも出来るが、逆に、飛び立つ手助けをすることも出来ることは知っているか・・・」 甄姫は、目の前が暗くなるのを感じた。 一体、曹操の言葉には、どれだけの意味が含まれているのか・・・。 震える体を両手で押さえながら、やっとのことで甄姫は口を開く。 「それは・・・一体・・・、どういうことでしょうか・・・」 「言葉、そのままの意味だ」 「私は、必要ないと・・・?」 「お前が、そう感じたのならば、そうであろう」 なぜ・・・。 なぜ、今になって、このようなことを口にするのか・・・。 飛び立っても構わぬと。 むしろ、その手助けさえすると・・・。 ならば、どうして、あの時私を拾われたのか・・・。 涙を流し、曹操の胸を叩きながら問いたかった・・・。 しかし、今の甄姫には、そうする気力さえ残されてはいない。 残されているのは、絶望だけであった。 「そう・・・でございますか・・・」 「翼を得た鳥が飛び立たないなど、不自然なことだとは思わないか」 「あっ・・・はい・・・」 あまりにも、突然すぎる曹操の言葉に、甄姫はもう何を言ってよいのか分からなかった。 その様子を見かねた張コウが、甄姫を守るかのように前へ出る。 「・・・曹操様・・・。誠に申し訳ございませんが、甄姫様のご気分が悪いご様子。今日は、下がらせていただきとうございます」 遠くを見据えながら曹操が答える。 「そうか・・・。」 「参りましょう。甄姫様」 甄姫を支えるようにして、張コウは言う。 「・・・ええ・・・。曹操様、失礼いたします・・・」 張コウは両手で甄姫を支えながらも、扉の方へ向かい、扉に手をかけた。 「甄姫・・・。お前はどこを向いている・・・」 目線を変えず、未だに遠くを見据えたままの曹操の言葉。 甄姫は、その言葉を聞き、最後の気力を振り出し、張コウに手を離すように訴え、自分の力で立つ。 そして、何にも負けぬ気高さでその問いに対する答えを発した。 「・・・曹操様のお気に召すままに・・・」 >>>強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜 <幻想編>に続く。 |
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