+強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜<運命編>+ |
その瞳は炎のごとき熱さを持ち、その眼差しは氷のごとき冷たさを持つ。 軍事においての類まれなるその才は、人々を恐れさせるのには十分であった。 何百年、何千年の時を越えても、なお語りつがれているその名前。 ―――― 曹操 。 「 甄姫 「母上!?」 甄姫と呼ばれた娘は、まだ12の年を数えたばかりの幼い少女であった。 母から命じられるままに、とまどいながらも甄姫は、小さな戸のついた納戸のような部屋に押し込まれるように入った。 バタンという音と共に、甄姫のいる部屋の戸が母の手によって勢いよく閉められる。 甄姫は、どうすることも出来ず、ただ呆然と立ちすくむしかなかった。 家族で穏やかに過ごしていた時間が、まるで砕けた硝子のように瞬く間に壊れたのだ。 今の状況を、甄姫が理解することなど出来るはずもなかった。 急に母に連れられ、この部屋まで来たのだから。 「母上!? どうしたというのです!?」 軽く戸を叩きながら、その言葉を繰り返す。 母は、唇をかみながらしばらくの間、黙ってその言葉を聞いていた。 そして、重い口を開く。 「よいですか・・・。甄姫・・・。何があってもここから出てきてはなりません。何があってもです。明日の朝までここで過ごしなさい。よいですね」 「はい・・・」 いつもとは明らかに違う母の様子に、甄姫はただうなずくしかなかった。 細く震えているけれども、どこか強さを感じられるその母の声は、鳥肌となって甄姫に伝わった。 この部屋は暗いけれども、寒さは感じない。 いや、本来ならば、寒いのかもしれないが、緊張に似た、体がこわばるような感情により、その感覚は完全に麻痺していた。 けれども、確かに感じる嫌な予感。 「母上・・・?」 甄姫は無意識のうちに呟いていた。 「キャ―――ッ!!」 その呟きの答えの代わりに聞こえたのは、空気を切り裂くほどに鋭い母の悲鳴。 思わず戸を開けようとする自分を止めつつ、―――何があっても―――という母の言葉を、頭の中で何度も唱えた。 しかし、頭をよぎるのは母の叫び。 そして、母が危険な目にあっているという確信。 バタンという大きな音をたて、甄姫は戸を開いた。 母を見捨て、自分だけ助かるようなことはしたくない。 この身が、子供であったとしても、自分の身は自分で守るという信念があるから。 そんな思いを持ち、自分の身を守ってくれていたであろう戸を開いた甄姫の前には、あまりにも残酷な光景が広がっていた。 「はっ・・・母上!!」 胸元から大量に血を流している母に、甄姫は無我夢中で駆け寄った。 「甄・・・姫・・・。なぜあの部屋から出たのです・・・。早く戻りなさい・・・」 「嫌です!母上を置いて、自分だけ生き延びるなど、出来るはずがありません!!」 激しく首を横にふる甄姫の頬に、母は優しく手をかざした。 「あなたは生き延びなければなりません。いえ、生き延びる運命なのです。例え、この身が滅びようとも、あなたの命だけは・・・! 甄姫のこれから歩む道が、一人きりであったとしても。生きてさえいれば。生きてさえいれば、きっと幸福の時はやってくるのですから・・・」 「なぜ、そこまでして生きなければならないのですか!! 私の人生に、どれほどの価値があると・・・!?」 声を上げ、叫ぶ甄姫の姿は、誰が見ても痛々しいほどであった。 「それを探すのです。あなたの命は、私が生きていた証・・・。母の分まで、生きるのです。その背に背負っているものが、十字架であろうとも・・・」 「探・・・す・・・?」 「そうです・・・。・・・さあ、早く戻るのです・・・。曹・・・操・・・が・・・。曹・・・操・・・が・・・!!」 途切れかけた命を、やっとのことで繋ぐかのように、母は最後の力をその言葉に託し帰らぬ人となった。 「母上―――――!!!」 その体をいくら揺らしても、とぎれた命がつながることはない。 目の前がぼやけ、頬に冷たいものを感じ、初めて自分が涙を流しいることに気付く。 母の周りには、鮮やか過ぎる赤い血の海。 その海の中で倒れているその姿は、人々が夢を紡いで作り上げた、空想の生物である人魚にも似ていた。 それほど、母の姿は、純真無垢な乙女のようであったのだ。 母の血が、服をいくら汚そうとも、甄姫はその場から離れることは出来なかった。 ただしっかりと、まだ温かい母の体を抱き、涙を流しながらその場に座り込むしかなかったのだ。 「まだ生き残りがいたとはな・・・」 突然の声に我が耳を疑いながらも、甄姫は静かに声のする方へ振り返った。 「―――――!!」 声にならぬ声を発した甄姫を見て、幾人かの家臣であろう人を引き連れたその声の主は言う。 「我が名は曹操。漢より来た。我が国の帝より、この館の者の皆殺しの 命 曹操の言葉により、甄姫は母の言葉を思い出した。 母の命が消える寸前に繰り返していたその名前。 「曹操・・・」 自分の口から出た言葉を聞き、甄姫はある確信へとたどり着いた。 この目の前にいる男なのだ。 母の命を絶ったのは。 この、曹操と名乗る人物なのだ。 けれども、なぜであろう――――。 憎むべき相手であるはずなのに・・・。 漆黒の髪はあまりにも艶やかで、凛々しい眉はあまりにも強く、大きな目はあまりにも鋭く。 そして、その体に受けた他人の血は、まるでその身を守る鎧のよう。 それらすべてに目が奪われる。 例え目を逸らそうとしても、体がそれを拒む。 目の前にいる気高い姿は、甄姫の体を呪縛させるのだ。 「逃げたくば、逃げるがよい。例えお前が地の果てまで逃げようとも、私はお前の姿を追い、その首を捕る」 その声の音は、どこか誘惑でもするかのような甘さを宿していた。 「いいえ。私は、逃げも隠れもいたしません」 「ほう・・・。そなたは、ここで私におとなしく殺されるというのか」 何か珍しいものでも見るかのように目を細め、曹操は甄姫の方へゆっくりと近づいていく。 曹操の目は、座り込んでいる甄姫の胸を激しく貫くほどのものであった。 「曹操様。この屋敷の生き残りは、その娘だけでございます」 おそらく館の中を見回ってきたのであろう、その曹操の家臣の名は 陸遜 「やはり、お前で最後らしい・・・が・・・。なぜ・・・なぜ、逃げようとせぬ・・・! なぜ、私に命乞いをせぬのか・・・!!」 激しい口調で甄姫を責め立てるその様子に、皆、恐れの表情を浮かべていた。 動じることなく、その場に座り込んでいる甄姫を除いては。 「女の身ひとつで、どうして生きていくことが出来ましょう。無理にと命を延ばした所で、私には行く場所などございません。見ればあなた様は相当な身分をお持ちのご様子。そのようなお方の手にかかるのならばなおさらのこと、喜んで死を受け入れる次第でございます」 しかし、甄姫はただ一つ心に引っかかっていることがあった。 それは、母の言葉である。 母は、「生きろ」と言ったのだ。 生きる運命であると。 けれども、その言葉を果たすことが出来ない。 例え逃げたとしても、命乞いをしたとしても、この曹操という男が自分を必ず殺めるであろうということを甄姫は分かっていた。 「・・・それならば、甘んじて受け入れるがよい・・・」 血という名の赤い光を放つ自らの剣を、曹操は力強く振り上げた。 それと同時に、甄姫はかたく目を閉じる。 けれども―――。 体が切り裂かれる痛みが伝わってくることはなく、剣が体に食い込む冷たさも伝わってはこない。 甄姫がその身で感じていたのは、なぜか自分の体が浮き上がる感覚だけであった。 その状況を理解しようと目を開いたその瞳に映ったものは、いたずらな笑みを浮かべた曹操の姿。 「曹操様・・・!?」 陸遜をはじめとする家臣たちが、次々にその名を口にした。 それもそのはず。 曹操は先ほどまで殺そうとしていた相手を、今は軽々と抱きかかえているのだから。 「気に入った。そなたの名、何という」 「甄姫でございます」 「甄姫か・・・。よい名だ。そなたはこれから、私の側室となるのだ」 「曹操様!! それでは、帝の命が・・・!!」 突然すぎる曹操の言葉に、いち早く言葉を返したのが陸遜であった。 他の家臣たちは、ただただ顔を見合わせるだけある。 「かまわぬ。所詮帝はかごの中で鳴いている鳥。かごの外で起こったことなど、知る由もない」 「・・・っ」 何かを言いかけた陸遜であったが、すぐさまそれを喉の奥へと封じ込める。 陸遜にとって、曹操とは絶対なのである。 例え自分が何かを言ったとしても、自分の考えを決して曲げることのないということを、陸遜は痛いほど知っていた。 「よいな。お前はこれから漢の国の者となるのだ」 ―――生き延びる運命――― 確かに母はそう言った。 漢の国で、曹操の元で暮らすことこそが運命ならば、母の生きた証となるよう、私は生きていく・・・。 「はい・・・。この命、あなた様のものでございます」 この時、様々な人を巻き込むであろう、運命という名の歯車が動き出す音を、甄姫は確かに聞いたのだった。 >>>強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜 <出会い編>に続く。 |
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