+強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜<幻想編>+ |
「甄姫・・・。お前はどこを向いている・・・」 「・・・曹操様のお気に召すままに・・・」 「大丈夫でございますか・・・。甄姫様・・・」 あれから、もう、どれくらいの時間が過ぎただろうか。 日はとうの昔に落ち、今は、暗闇が辺りを覆っている。 甄姫は、曹操の部屋から帰ってきた後、一言たりともしゃべることなく自分の部屋の椅子に腰掛けていた。 張コウも、そんな甄姫にどうすることもできずにいる。 頭をよぎるのは、曹操と甄姫のやり取りだけ。 けれども、身動きすらせずじっと一点だけを見つめている甄姫に、張コウはやっとのことでその一言を口にしたのだ。 甄姫は、目線を動かすことはせずに、軽く鼻で笑いながら口を開く。 「・・・笑って頂戴・・・。張コウ・・・。今の私の、この無様な姿を・・・! さあ、笑いなさい!!」 大きな音を立てて、椅子が倒れた。 甄姫が、勢いよく立ち上がったためである。 その目はこれ以上もないくらいに見開き、その手は震えるほどにきつく握られていた。 「甄姫様・・・」 「何て情けないことでしょう。今までの私の人生は、何だったのでしょうね・・・」 8年。 それは、あまりにも長かった。 それでも、生きてきたのだ。 ―――生き延びる運命――― 母が残したその言葉を胸に。 自分の命が、曹操の手の中にあることを信じ。 甄姫の頬を流れるのは―――涙・・・。 悔しいのか、寂しいのか、怒りなのか。 それは、甄姫自身さえも分からなかった。 甄姫はその涙を拭うことさえせず、そのまま張コウの前まで進んでくる。 「ねえ、張コウ・・・。8年前、私たちが始めて出会ったときのことを覚えていて・・・?」 「はい・・・」 「私が家族を、住む場所を、故郷を失ったあの日、曹操様は私を守るようにと、あなたを紹介してくださいました。あの時、私は、あなたを女の人と間違えてしまったのよね。本当に、張コウは美しかったから」 長い髪は秀麗な顔を縁取り、繊細な体で優雅に立ち振る舞う様は、甄姫が女だと見間違うのも無理はなかった。 それは、8年たった今でも、決してかげることはない。 「そのようなことも、ございましたね・・・」 「あの日、私は、過去の全てを捨てたのです・・・。曹操様のためだけに、この身が存在することを覚悟したのです」 「ええ。存じております」 忘れることなどできるはずもない。 曹操から、12になったばかりの子供を守れと言われた時、張コウは我が耳を疑った。 なぜ、自分がそのような幼い子供の面倒を見なければならないのか・・・。 なぜ、曹操ともあろう人が、そのような幼い娘などを相手にするのか・・・。 自由気ままに生きてきた張コウにとって、それは束縛以外の何物でもなかったのだ。 けれども、そんな思いは、すぐにかき消されることになる。 曹操に連れられてきた甄姫を一目見たときに・・・。 ―――甄姫と申します――― たった一言、甄姫はそう言った。 けれども、その一言の中に、どれほどの思いが含まれていたのか。 もし、自分が、曹操の立場にいたのならば、間違いなく曹操と同じ道を歩んだであろう。 この娘を、自分の傍に置く、という道を。 この人は、子供ではない。 女―――なのだ。 そして、紛れもなく、自分の主人となるべき人なのだ・・・。 「私など、曹操様には必要ないと言われたのであれば、まだよかった・・・。けれども、あの方は、私を飛び立たせて下さると、そうおっしゃった・・・。悲しいことね・・・。私は、もう・・・、曹操様のお傍にもいられないのです・・・」 必要ないと言われても、ただ見ているだけでいい。 触れることはなくても、ただ同じ空気の中にいるだけでいい。 想いを告げることがなくてもよかった。 気持ちが通じることなんて望んでいなかった。 私が求めたのは、あの人の面影だけ。 ただ、傍にいるだけでよかったのに・・・。 それさえも、あの人は許してくれないのか。 「甄姫様・・・。・・・もう、夜も更けてまいりました。今日は、もう、お休み下さいませ・・・」 張コウは、目の前にいる甄姫の涙を手で拭いながら言う。 「けれども、あの方が・・・」 毎夜聞こえてくる足音が、今日も変わらず近づいてくる。 「ここを開けてくださいませ。甄姫様・・・」 「ほら、今日もやはり・・・」 甄姫は目線だけ扉のほうへ向けた。 「私が、お断り申し上げます」 「いいえ・・・。私が参ります・・・」 「甄姫様・・・」 声のほうへ向かおうとしていた張コウを、甄姫はすかさず止め、その足を扉へと向ける。 「趙雲、なぜ、あなたは、毎夜欠かさず、こうして来てくださるのでしょうか・・・」 趙雲は、いつもとは違う甄姫の声の音に、少し戸惑いながらも答える。 「お慕い申し上げているからでございます・・・。例えこの扉が開くことがなくとも、私は嬉しいのです。こうしてあなた様が私に言葉を投げかけてくださることが、とてつもなく嬉しいのでございます・・・」 「・・・曹操様はこのことを存じておられます・・・」 「曹操様が・・・!?」 そう・・・。 全て、あの方は知っておられた。 そういう方なのだ・・・。 きっと、心の中までも見抜いているのであろう。 それが、天下をとるお方なのだから・・・。 「ですから、もう、お止めなさい・・・。今は、曹操様の気ままで見て見ぬふりをしてくださっていますが、それももう、どれくらい続くか・・・。曹操様のお心次第で、あなたの命は無きものにされてしまうのですよ・・・」 それは、偽りの言葉。 ―――飛び立つ手助けをすることも出来る そう言ったのだ、曹操は。 その言葉が覆されることなどないことを、甄姫は知っていた。 覆されるのならば、どれほどよかったか・・・。 けれども、それは、叶わぬ夢でしかないのだから。 「・・・いいえ・・・。いいえ・・・! 曹操様が私の命をどうしようとも、私はあなた様を諦めることなどできませぬ・・・!」 その声は、夜空を彩る星たちの輝きよりも強く、そして、いくら欠けようともやがては満ちる月の光よりも澄んでいた。 「そこまで、私のことを・・・。趙雲・・・。私のことを、愛してくれているのですね・・・」 「はい・・・。この命、甄姫様のものでございます・・・!」 私の・・・もの・・・。 私のものであるというのか・・・。 この命が曹操様のものであると信じていたように、この趙雲も私に命を託してくれるのか・・・。 苦しく、切ない思いを、趙雲も同じように感じているというのか・・・。 「では・・・。私だけであると・・・、あなたが愛しているのは私だけであると、約束してください・・・」 もう・・・、裏切られたくはないから・・・。 愛に苦しむのは、嫌・・・。 「甄姫様・・・。この命にかけて、私の愛する人は、甄姫様だけでございます・・・」 「趙・・・雲・・・」 それは、誘いの言葉――― 扉を開けようとする手を、甄姫自身、どうすることも出来ないでいた。 「甄姫様! いけませぬ!!」 張コウの言葉により、その手は一瞬動きを止める。 そして、扉を守るようにそれに背を向け、張コウの視線をまっすぐに受け止めた。 「張コウ・・・。・・・私は・・・寂しいのです・・・。どうしようもなく・・・寂しいのです・・・」 「しかしっ・・・!」 なんと、弱々しいのだ・・・。 自分の前にいる人は・・・。 初めて会った時の強い瞳は、今はもうない。 涙はとめどなく流れ、体は何かに怯えているように震えることを止めない。 「お願いです・・・。張コウ・・・」 「しかし、甄姫様・・・、取り返しのつかないことに・・・!!」 「この人生に何の未練がございましょう・・・。私は、生きてみたいのです・・・。一度でいい・・・好きなように・・・生きてみたいのです・・・」 そこまで言われて、どうして止めることができよう。 生きてみたい・・・。 その言葉が、張コウの頭の中で響いて離れない。 おそらく、この方の、初めてであり、そして、最後であろう我がまま―――。 「・・・・・・・・・分かり・・・ました・・・」 私の・・・負けか・・・。 止められるはずもない。 この方のお気持ちは、あまりにも強く・・・そして、悲しすぎるのだから・・・。 「ありがとう・・・。張コウ・・・」 それだけ言うと、甄姫は再び扉へと視線を戻した。 そして、ゆっくりと、静かにその扉を開ける。 決して開けることはないと思っていた扉。 開けてはならないと思っていた扉である。 「趙雲・・・。今宵は、私と共に・・・」 「甄姫様・・・」 「甄姫様、私はこれで・・・」 張コウは、その様子を見、軽く一礼をすると、そこから去っていった。 「張コウ・・・。結局は、あなたを私の運命に巻き込んでしまいました・・・。何とお詫びすればよいか・・・」 甄姫は、深く頭を下げる。 私がこのような運命を背負っていなければ、張コウもこのような思いをせずにすんだであろう・・・。 「甄姫様、お止めくださいませ・・・。あなた様のお命が曹操様のものであったように、趙雲様のお命があなた様のものであるように、私の命もまた、甄姫様のものなのでございますから・・・」 趙雲は、噛み締めるように、甄姫の部屋に入ると、まっすぐに甄姫の傍による。 「甄姫様・・・」 甄姫は、いつの間にか、自分の体が趙雲によって包まれていることに気付いた。 趙雲からゆっくりと自分の体を離すと、甄姫は複雑な笑みを浮かべる。 「趙雲、私、あなたから頂いた書物、読みましたのよ・・・」 「・・・どう思われましたか・・・?」 それは、趙雲が初めてこの漢の国へ足を踏み入れた時、奏の国からの贈り物として甄姫に献上された、女性が愛について学ぶという書物。 「愛というものは、難しいものですわね・・・」 「甄姫様の愛は、一体どこにおありになるのでしょう」 私の愛など・・・。 自分でも、分かるはずもない・・・。 「私の愛は・・・先ほど、砕かれてしまいました・・・」 「曹操様にでございますか・・・」 「・・・知っていたのですね・・・。私の愛が、どこにあるのかを・・・」 「はい・・・」 初めから知っていた。 あの日、初めて甄姫を目にした時から。 けれど、それは、当然のこと。 趙雲が甄姫に惹かれた理由がそこにあった。 甄姫の、曹操に対する一途な瞳に、趙雲は魅了されたのだから。 「8年前、私は曹操様に、命だけではなく、心まで囚われてしまったのです・・・」 趙雲は甄姫の唇に、そっと自分の人差し指を当てた。 そして、再び甄姫の体を、自分に勢いよく引きつける。 「甄姫様・・・。もう、お止めください・・・。あなた様から、他の男の名を聞くことは我慢なりません・・・」 「おかしなことね・・・。あなたから聞いてきたのに」 「申し訳ございません・・・」 「趙雲・・・。私は、震えています・・・」 確かに、甄姫は震えていた。 それは、鮮明に趙雲の体まで伝わる。 趙雲は無意識のうちに、より一層きつく甄姫の体をきつく、きつく抱きしめていた。 「大丈夫でございますよ・・・」 「でもっ・・・」 「今宵のことは、夜の帳が、すべてを隠します・・・」 きっとそれは、ただのまやかし。 けれども、それでいい。 今だけは―――。 暖かいところへ。 人の温もりに包まれていたい。 たとえそれが、幻想のように儚いものであったとしても・・・。 >>>強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜 <愛奏編>に続く。 |
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