+強き想いのその果てに
     〜時空を越えた三国志〜<雨夜編>+



愛に正直だった彼は、それ故に、愛に純粋だった。
ただ、愛を想い、愛に焦がれ。
けれども・・・。
その人は、もう、帰っては来ない。
姿を見る日は、二度と来ない。

甄姫を残し、そして、曹操の言葉を振り切り。
自分の愚かさを呪いながら。
彼は、静かに、逝ってしまったのだから・・・。


「・・・と、いうことだ」
曹操は、そう言うと、自分の右隣にある、大きな柱に目を向けた。
その柱の後ろから現れたのは―――甄姫。


趙雲がこの部屋を訪れる少し前、同じように甄姫も、この部屋へ足を踏み入れた。
「何の用だ、甄姫」
「曹操様に、一つ、尋ねたいことがございます・・・」
曹操の前で膝を折り、深く頭を下げていた甄姫からの言葉である。
曹操は、わずかに眉を潜めた。
「ほう・・・。尋ねたいこと・・・」
その声は、かすかに好奇心を帯びている。
「はい。よろしいでしょうか」
「構わぬ。話せ」
ここで、やっと頭を上げた甄姫は、曹操の視線をしっかりと受け止めた。
「はい。・・・尋ねたいことはただ一つ・・・。曹操様のお気持ちでございます」
「今更、私の気持ちの、何が知りたいと言うのだ」
そう。
甄姫は、一度、曹操の気持ちを聞いていた。
あの夜に。
答えは、とうに持っていた。
それは、あまりにも、残酷なもの・・・。
甄姫にとっては、耐え難いものであった。
けれども、もう一度・・・。
もう一度だけ、聞かずにはいれなかったのだ。
「曹操様は、私を気まぐれに拾われたと、飛び立ってもよいと、そうおっしゃいました・・・」
震える声で、鮮やかに残っている記憶の欠片を口にする。
「だから、どうしたと言うのだ」
無機質な、興味など全くない声で、曹操は答えた。
「その言葉、真でございましょうか・・・」
「嘘はつかぬ」
はっきりと、そして、聞き間違えることなどない声で言う。
まるで、現実に、枠線でもつけるかのように、それを確実なものにした。
甄姫は、その言葉を知っていた。
けれども、心のどこかで、否定を求めていたのだ。
あの時の言葉は偽りであったと・・・。
そう、曹操が口にする望みを、捨てきれずにいた。
それが、叶うことはないというのに・・・。
いくら望んだとしても。
しかし・・・。
どれほど、この愛に苦しもうとも・・・。
この愛が届く日が来なくとも・・・。
曹操から「飛びたて」と言われた日から胸の奥にある思いはただ一つ。
―――離れたくはない・・・。
ただ、それだけ。
「正直に申します・・・。私は、飛び立ちたくはないのです・・・」
「何? 趙雲と行きたくはないと、そう申すのか・・・」
それは、曹操が初めて顔色を変えた瞬間でもあった。
「はい・・・」
静かに。
全ての静寂を誘うように、甄姫は答える。
もう、この気持ちに、嘘などつけるはずもない。
ついたところで、自分の目の前にいる人物は、曹操なのだ。
その鋭い目で、一瞬のうちに見透かされよう。
「何故、そのようなことを言う・・・」
少しの戸惑いと疑いの声音で、曹操は問う。
「怖いのでございます・・・。新しい世界が・・・」
「・・・そのようなことは許さぬ・・・。お前は、趙雲と共に、行くのだ・・・」
小刻みに震えている甄姫を前に、曹操は怒りを込めて言った。
一言一言に、強い力が込められているような、そんな声で。
自分も、かすかではあるが、震えていることに、曹操自身、気付かないでいた。
「しかし・・・」
「行くのだ!!」
甄姫の言葉を遮り、まるで何かに言い聞かすような激しい言葉。
「なぜで・・・ございますか・・・。私が・・・、私が・・・、邪魔であると・・・」
甄姫の言葉を聞くと、曹操は鼻にかけた笑いと共に口を開いた。
「そう言えば、行くか・・・。確かに・・・、お前を拾ったことは、誤算であった・・・。お前を前にすると・・・、私が狂ってゆく・・・」
「それは、どういう意味でございましょう・・・。そこまで、私がお嫌いですか・・・」
自分を責めるように、甄姫は未だ震えを止めることはできなかった。
それは、ただひたすら離れることに恐れを抱き、必死で曹操にしがみつこうとする姿。
醜いものであるはずなのに。
なぜか、それは、妖艶。
と、その時。
傍に仕えていた陸遜が口を開く。
「曹操様、趙雲様が参ります」
その陸遜の言葉に、甄姫は顔色を変える。
蒼白である甄姫に対し、曹操は何か面白いことでも閃いたかのような顔。
「甄姫、お前は私の心の内が、どうしても知りたいと見える・・・」
「はい・・・」
曹操の考えが見えず、甄姫はだたそう言うしかなかった。
けれども、曹操様の本当の心が、他にあるのならば。
それに、かけてみたい・・・。
「後悔しても、知らぬぞ・・・」
「承知しております」
それには、微塵の迷いもなかった。
あるのは、ただ、覚悟だけ。
「ならば、教えてやろう・・・。そこの柱に隠れているがよい・・・。趙雲が出ていくまで・・・」
そういいながら、曹操は、自分の隣にある柱を指差す。
そこは、決して趙雲から見えぬ場所。
けれども、室内の音を十分に聞くことができる場所でもあった。


「これが、お前が求めていた答えだ」
「はい・・・」
甄姫は、頷くことしかできずにいた。
「気は済んだか・・・」
再び繰り返される曹操の問い。
「・・・はい」
「なぜ、姿を現し、趙雲を止めなかった」
趙雲がこの部屋を出て行くのを、甄姫は知っていたはずだ。
この柱の後ろで、すべて聞いていたはずであった。
それを責めるような眼差しで、甄姫を射る。
けれども、その眼差しをものともせず、甄姫は続けた。
「私が止めても、無駄なことでございましょう。曹操様、あなた様がお止めになってもなお、あの方は行ってしまわれたのですから」
「しかし、お前は趙雲の思い人。そんなお前の言葉なら、趙雲も耳を傾けるのではないか」
確かに、曹操の言うことは的を得ていた。
思いを寄せる相手の言葉なら、素直に聞き入れることもあろう。
しかし、それとは反して、甄姫は静かに首を横にふる。
「いいえ。そのようなことになるはずもございません。・・・曹操様、趙雲がこの漢へ来た理由、ご存知ですか」
「使者としてであろう・・・」
「はい。その通りでございます。けれども、あの方は奏の武人。しかも、相当なくらいを持つ、武将。そのような人が、なぜ、使者として漢へ参ったのか・・・。その理由を、私は存じております」
あの夜。
趙雲に自分を委ねてしまった、あの夜。
その口から語られたのは、甄姫の知らぬ真実であった。
なぜ、自分がこの国に参ったのか。
趙雲が一言一言、漏らすように口にしたその話を今度は、曹操へと伝える。
「それは、何だ」
曹操は、未だ頑なな表情を崩すことはない。
「それは・・・。曹操様でございます。あの方は、同じ武人でありながら、生き方が全く異なる曹操様に惹かれて、この国へ参ったのです」
「私に・・・だと・・・?」
思いもよらぬ甄姫の言葉に、曹操はわずかにその表情を歪める。
「はい。あなた様を前にした時、趙雲は、体だけでなく、心までも、平伏したのでございましょう。趙雲は、申しておりました。曹操様に敵うはずもない。あの方こそ、まぎれもなく、天なのだから・・・と」
それは、まだ、趙雲が曹操の、真の想いを知らぬ頃。
この後、曹操の想いを知り、甄姫に対する想いまでも敵わぬことを身をもって知ることになるのであった。
「それが、趙雲の目的であったか・・・」
「私は思うのです。趙雲は、もう、死を背負い、この部屋へと足を向けたのだと。あの方は、初めから、知っていたのでございましょう・・・。自分の、最期を・・・」
それに気付いたのはいつだったか。
いや、初めから知っていたように思える。
あの人は、言ったのだ。
部屋をさる前に。
―――甄姫様、私にとっては、今宵は一夜の幻でございました。
と。
それ以来、趙雲が甄姫に触れることは、一度もない。
甄姫を連れて行く気など、趙雲は少しもなかったのだ。
「・・・私を、責めるか・・・。気ままにお前を拾い、趙雲と引き合わせ、全てを狂わした私を、責めるか・・・」
「いいえ・・・」
「なぜ、責めぬ・・・」
「曹操様を責める理由など、どこにございましょう・・・」
曹操が自分自身を責めていることを、甄姫は鮮明に感じ取っていた。
これ以上、どうして責めることができるのか。
むしろ、責めるべきものは、自分であるというのに・・・。
柱の後ろで、潜むように聞いていたのは、曹操の本心。
甄姫を愛していると、そう言った曹操の本心であった。
それを耳にしたとき、一体どれほどのことを悔やんだか。
これほど深く想ってくれる人が、これほど近くにいたことに、少したりとも気付くことはなかった。
ただ、愛だけを求め。
寂しさを忘れることをひたすら望んだあの日々が、今となっては、なんと愚かであったことか。
そういうものではなかったのだ。
愛する、ということは。
一方的では、成り立つはずもなかったのだ。
知らなかった。
知ろうともしなかったのだから。
「甄姫・・・何を考えてる・・・」
俯く甄姫に、曹操は胸の中で生まれた不安を言葉にする。
「曹操様・・・。私は、醜いのでございます。曹操様を縛ることなど、出来るはずもないのに、その心を我がものにすることなど、出来るはずもないのに、私はそれを望んでしまった。趙雲の思いを受け入れることなど、許されるはずもないのに、私は扉を開けてしまった。人を想う苦しさを、痛いほど知っていたはずなのに、人のそれには、知らぬふりをしていたのです・・・」
それは、まさしく罪。
一生をかけても償いきれぬ、深い罪。
「生きては・・・くれぬのか・・・」
それは、信じられぬほど自然に曹操の口から発せられる。
甄姫の胸の内を知る故に・・・。
「曹操様。あなた様にとって、一人の女など、足元に転がる小石のようなものでございましょう・・・」
無限にも近い力を持つ曹操に対して、自分はあまりにも小さい。
そような曹操を受け入れることができる器量を、持ち合わせているはずもなかった。
「しかし、小石とて、いつかは宝玉になるかも知れぬ」
「ならば、同じように、小石とて、一つの生き方が、強き想いがございます・・・。たとえそれが小石であろうとも、曹操様の行く道の妨げになることは確か・・・。そのような自分が許せないのです・・・」
「しかし・・・」
「お別れでございます・・・。曹操様・・・」
荒い息を含んだその声に、曹操は目を見張る。
そして、勢いよく立ち上がると、一目散に甄姫の元へと走りながら言う。
「・・・もしや・・・、甄姫・・・、毒を・・・、毒を飲んだのか・・・!?」
その問いの答えの代わりであったか。
甄姫は、その場に崩れ落ちる。
それを支えながら、曹操は叫んだ。
「甄姫!!」
横になる甄姫を抱くような形で座り込む曹操。
うっすらと目を開け、曹操の頬に、かすかに震える手を添える。
飲んだものは、確かに毒。
しかも、それは、8年前、曹操の手から渡された毒であった。
この漢に連れてこられ、幾日かが過ぎた頃に。
―――これを、いつでも身につけていろ。
その声は、今でも記憶の中で色あせることはない。
逆に、日を増すごとに、鮮やかなものになっていくのは、一体なぜであろう。
曹操は多くのものの上に立つ。
それ故、その身を狙われることは決して少なくない。
それは、本人だけに限ったことではなく、甄姫も例外ではなかった。
そのため、曹操の親類をはじめとする周りの人々は、この毒をいつも所持しているのだ。
もし、敵に捕らわれた時に、自害をするため。
敵に殺められるくらいならば、自分で命を絶つ。
それは、自分が自分であるための、最終的な手段であるのだから。
甄姫も、当然のことながら、その毒を、いつも離さず身につけていた。
先ほどまでは・・・。
「曹・・・操・・・様・・・。私には・・・幸せすぎる人生でございました・・・。あなた様と出会い・・・愛を知り・・・」
今にも命の炎が消えてしまいそうな、そんな感覚を覚えるその声に、曹操は自分を失くすほどに動揺していた。
「甄・・・姫・・・。まだ、私は、お前に愛を返してはおらぬ!!」
「それならば・・・今一度、私に、愛を下さいませ・・・」
そう言い、甄姫は瞳を閉じる。
何かをねだるように。
曹操は甄姫の言葉から何かを悟ると、そっと自分の顔をそれに近づける。
ゆっくりと目を閉じ―――
周りを漂う静かな時間に溶け込む。
甄姫の唇に触れる曹操のそれは、あまりにも優しい。
それは、神聖な儀式。
体を侵していく毒など、まるで初めからなく、全てを包み込んでくれるのではないかと思ってしまうような。
いくらからの時間が過ぎ・・・。
惜しむようにそれは離れた。
と同時に、温かいものが甄姫の瞳から流れ落ちる。
「私は、嬉しい・・・。曹操様に愛され・・・こうして、あなたの腕の中で逝くことができる・・・。それが・・・、何より、嬉しいのです・・・」
「なぜ、このような選択をした・・・!」
それは、怒りにも似ていたが、それよりも、深い悲しみのほうが勝っていた。
もう、取り返しはつかないのだ。
あの毒は、どのようなことがおころうとも命を殺めるもの。
それほどの覚悟と共に、喉を通すものであるから。
分かってはいても、責めることを止められずにはいられなかった。
「それは・・・、私が・・・、何よりも弱いから・・・。胸が張り裂けそうな想いに・・・耐えることができぬから・・・。すべては・・・、私のわがまま・・・」
「・・・甄・・・姫・・・」
「私は・・・、そのような女なのです・・・」
曹操の胸の内を知り、甄姫の心に芽生えた感情は恐れであった。
想い続けていた人が、自分と同じ想いであったと聞いた時、人はたいてい喜びを胸に抱くものである。
けれども、甄姫は恐れ―――
お互いの気持ちを知り、どうしてこれからそれを殺すことができよう。
きっと、求めてしまう。
今以上に、曹操の気持ちを。
欲望は、尽きることを知らない。
ただ、ひたすらに、それは増すばかりであるから。
曹操を自分のものにはできないことなど、甄姫はとうの昔から知っていた。
―――後悔しても、知らぬぞ・・・。
その言葉に頷いた甄姫であったが、その胸に宿るのは、やはり、後悔。
しかしそれは、曹操の想いを知ったことから生まれたのではない。
今までの自分の行いへの。
芽生えたばかりの、醜すぎる感情への。
―――後悔。
「そのようなもの、いくらでも聞いてやる・・・! お前の望むもの全てを、手に入れてみせよう・・・!!」
たとえ、それが、どんなに困難なことであっても。
目の前にいる人物が望むのならば、この命を投げ出すことさえ構わない。
けれども、それを拒む甄姫は、未だ涙を流したままであった。
「いいえ・・・。その必要はございませぬ・・・。私のわがままは・・・もう最後・・・。これでやっと・・・、私は・・・死をもって・・・曹操様のお傍にいられるのですから・・・」
その言葉で、曹操は甄姫から視線をそらす。
何を言おうとも、甄姫の想いは堅い。
その姿が趙雲と重なるほどに。
それは、もう、止められぬという諦めの証でもあった。
これで、甄姫の心が永遠に手に入るのならば、それもよい・・・か―――
いつもの自分では考えられぬような思いを抱き、はたと曹操は我に返る。
愛する女の最期を前にして取り乱さぬ人間よりは、いくらかましか・・・。
唱えるように思いながら、甄姫の頬を流れる涙をそっと拭った。
「・・・甄姫・・・。・・・一つ、言わねばならぬことがある・・・。趙雲からの言葉だ・・・」
優しさを帯びたその声は、趙雲との約束を語る。
「はい・・・」
そのことを知っていたからであろうか。
甄姫は自然に頷いた。
趙雲の心は、誰のものでもなかった・・・。
そう言ったのだ。
趙雲は。
甄姫への伝言として。
曹操は約束を口にする。
「・・・趙雲の心は、甄姫のものであった・・・と」
趙雲の心は、甄姫のものであった・・・。
確かに、曹操の口はそう紡いだ。
私のものであるというのか・・・。
いや、そう思えと。
趙雲の心は、私のものであったと、そう思えとの曹操の言葉であった。
それは、間違いなく偽りの言葉。
分かっていた。
けれども、曹操がそう言うのだ。
疑えるはずもない。
「本当に・・・、本当に・・・、趙雲がそう申していたのですね・・・?」
「嘘はつかぬ」
微塵の迷いも含んでいない2度目のその声は、なぜかどの言葉よりも響いたように思えた。
「甄姫は・・・幸福な女でございます・・・。たくさんの愛の中で・・・逝くことが・・・できるのですから・・・」
より一層荒くなる息を押し分けて発せられる言葉は、何よりも痛々しい。
もう、しゃべるなという言葉を飲み込み、最後に一つ、と問う。
「・・・その中で、お前はどこを向いている・・・?」
それは、聞き覚えのある言葉であった。
薄れゆく意識の中で、甄姫は記憶の糸をたぐり寄せる。
深い息の中で頭をよぎったのは、今でも白昼夢であったのではないかと思うあの日。
絶望の淵に立たされたあの日、それを聞いた。
甄姫の呼吸は荒くなる一方である。
命が消える寸前であることは、誰が見ても一目瞭然であった。
それは、曹操も同じこと。
けれども、何も言わず、ただ甄姫の答えを待つばかり。
命が消える寸前、甄姫は口を開いた。
そして、言葉を託す。
最期の、精一杯の真実を含んだ言葉を。
「私は・・・、曹操様・・・あなた様だけを・・・」

そこに漂うのは、しばらくの沈黙。
そして、曹操は一つの真実を導き出した。
―――命の炎は、消えたのだ・・・。


それから、いくらかの時間が過ぎたであろう。
日はとうに落ち、そこにあるのは暗闇ばかり。
そして、いつからか、雨が辺りを包み込んでいた。
その中に、もう呼吸をすることのない骸を抱いたまま立っている影があった。
「曹操様、風邪をひかれます・・・」
それを見かねた陸遜が、何度目かの声をかける。
「よい。しばらくは、このままで・・・」
これも、変わることはない何度目かの答え。
甄姫が息を引き取った後、曹操はそれを抱え、こうして外へと出たのだ。
その様子は、不思議なほどに穏やかであった。
温かみを帯びていた骸は、今ではもう、冷たい。
これほど雨に打たれれば、それは当然のことだろう。
けれども、息をしていないとは思えぬほどに綺麗な顔がそこにあった。
「曹操様・・・」
ふいに、曹操の後ろから、その言葉が投げかけられる。
「張コウか」
陸遜とは違う声の音で、曹操はそう判断した。
「甄姫様に、ご挨拶を・・・」
そう言いながら、曹操の傍まで来ると、その腕の中にいる甄姫を覗き込む。
張コウは、無意識の中で目を見張った。
あまりにも美しかったから。
我を失くしてしまいそうなほどに。
張コウはしばらくの間、何の言葉も発することなく、ただ甄姫をみつめていた。
しかし、いくらそれに視線を浴びせようとも、それが合うことなどない。
その瞳は、もう二度と開くことはないのだから。
けれども、なぜであろう。
この瞳が開き、もう一度自分の名を呼んでくれることを信じて疑わない自分がいた。
張コウは、甄姫に深く頭を下げる。
これが、主人の最期なのだ、と。
そう、心に刻んで。
悲しい運命の歯車を、甄姫は死をもって自ら止めたのだ。
不思議と、涙は出なかった。
しかし、涙を流すよりも苦しい悲しみが、今、胸の中を侵している。
「お前は、これから、私に仕えるがよい。陸遜と共に。よいな?」
「御意のままに・・・」
突然の曹操の言葉を、張コウはなぜだか自然に受け入れることができた。
初めから、それを知っていたかのように。
「・・・甄姫は、よい女であったと、そう思わぬか・・・」
「はい・・・」
甄姫から一瞬たりとも視線をそらさぬ曹操の問いに、張コウはただ頷くしかない。
否定する言葉など、見つかるはずもない。
自分も、その「よい女」に惹かれた一人なのだから。
「よい・・・女であった・・・」
そう言った曹操の声は、かすかにかれていた。
張コウは、ふいに曹操の頬を流れるものに気付く。
「・・・曹操様・・・。もしや・・・」
―――泣いておられるのか・・・?
口にしたくとも、口にできぬ問いであった。
あの曹操が涙を流すなど・・・。
そのようなことがあるというのか。
しかし、曹操の頬を流れるの雨に混じって、かすかな違和感がある。
それは、果たして、涙であろうか。
「案ずるな。これは、雨だ・・・」
天を仰ぎ、自ら雨を顔に受ける。
腕の中にいる甄姫の重みを噛み締めるように。
「・・・そうでございますね・・・」
自分の思いに対する否定を促すように呟く。
辺りをよぎるのは、雨の音が響いているのにも関わらず、なぜか静かな時間。
それを遮るように、曹操は口を開いた。
「陸遜、張コウ・・・、奏を攻めるぞ」
何の脈略もないその言葉は、予想などしようもないものであった。
「しかし、それでは、同盟がっ・・・!」
奏と漢。
お互いの国を守るため、帝同士が交わした同盟。
慌てて陸遜が曹操に言葉を返した。
けれども、それに同意することはなく、逆に皮肉な笑いを浮かべている。
「構わぬ。すぐさま用意をいたせ!」
強く。
それは、強く放たれる。
曹操は、その鋭い眼差しの先に、一体何を見ているのか。
「・・・承知いたしました」
それは、弱く、雨の音にかき消されるようであった。
これ以上、反対できるはずもない。
陸遜と張コウは曹操の命に従い、それを行うためにそこから去る。
「張コウ!!」
その声により、張コウは動きを止める。
そして、振り返る先には、曹操。
「天下はどこにあるか?!」
それは、これから歩む道の問い。
張コウは、甄姫から曹操へと視線を移し、その後前を見据えて答える。

「今はどこにもございませぬ。けれども、じきに生まれましょう。曹操様、あなた様のその手の中に」


趙雲、甄姫。
私は、まだ、そなたたちの所へは行けぬ。
けれども、強き想いが引き寄せた二人の魂を、私の天下で必ずや結びつけよう・・・。
それが、私の、この世に馳せる誓いだ・・・。


果たして、人々が、強き想いのその果てに見るものは一体何であるというのか。
夢か、現か、それとも幻か―――

それは、時に、人を惑わす。
時に、人を狂わせる。
けれども、いつかは、語り継がれよう。

時空を越え、それは遥か彼方まで。



                 強き想いのその果てに 〜時空を越えた三国志〜 <完>
















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