+月読が微笑む夜 〜三国志のかけら達〜+ |
雲に隠されて、月が陰る。 まるで、この世の全てをのみ込んでしまうかのように・・・。 そこは、燐火のごとき小さな光が、灯っているだけであった。 二つの杯と、二つの人影。 それだけしかないにもかかわらず、そこはまるで、華やかな宴でも行われているかのような、そんな感覚さえ覚えてしまう。 「 夏侯惇 、女は好きか」 戦についての話を交わしていた矢先の言葉であった。 「突然何を言う。 孟徳 とっさのことに言葉の意味を理解することができず、夏侯惇は 曹操 「いや、お前が女といるところを、見たことがないのでな」 不適な笑みを浮かべる曹操に、夏侯惇は複雑な表情を見せる。 「俺はお前とは違うのでな。けれども・・・、あながち、女を知らぬというわけでもないのだ」 「ほう・・・。惚れた女でもいたか」 曹操は酒を手に取り、夏侯惇に勧めた。 夏侯惇はそれに気付くと、黙って杯を傾ける。 酒が杯に流れ落ちる心地よい音が、辺り一面に響いた。 「まあな・・・」 「興味深い話だ。どんな女だったのだ」 曹操の言葉により、夏侯惇の頭をよぎるのは、どれほどに時が流れようとも、決して薄れることのないたった一人の影。 頑なに思い出すまいとする意思とは裏腹に、心を惑わせるのは鮮やかな面影であった。 「・・・よい、女であった・・・。短い間であったがな・・・」 杯から、炎、そして月へと視線を移す夏侯惇を、曹操はなんとも言えぬ面持ちで見ていた。 「お前から、女の話を聞くとは思わなかったが、なるほど、よほどよい女であったらしい」 「孟徳、お前が言わせたのだろう・・・」 僅かばかりの怒りを滲ませて、今度は曹操へと視線を移す。 その様子に特に怯えた表情も見せず、曹操はグイっと酒を口に含んだ。 「まあ、そのように鋭い目をするな。もっと聞かせてはくれぬか、その話。いつ会ったのだ、その女とは」 口にしたくはない・・・。 まどろみの中にあるような、そんな穏やかな幸せの錯覚も。 振り返ればそこにいるような、そんな優しい人の気配も。 消え去ることはないのだ。 どれほど望もうとも、その人はもう傍らにはいないというのに。 「・・・言えぬ・・・、と言いたいところだが、それではお前が納得せぬだろうな・・・」 夏侯惇は、曹操の性格を、痛いほどよく理解している。 曹操が、夏侯惇のことを知り尽くしているように。 「そんなに言いにくいことか・・・」 「まあな・・・」 「所詮、昔のこと。今更あがいて、何になるというのだ」 そう。 もう、あれは、昔のこと。 二度とこの手に戻ることはない、遠い昔のことなのだ。 「そうだな・・・。・・・では、言おう・・・。あれは、2年ほど前であった・・・。覚えているか、孟徳。お前が気まぐれに、ある国へ行ったことを」 「覚えている。行くのを止めたお前に、俺がついて来いと命じたのであったな」 「ああ。一人で行かせるよりはと、仕方なくついて行ったのだ」 今は懐かしさに、穏やかな表情を浮かべている曹操ではあるが、2年過ぎた今でも、その突拍子もない行動は変わることはない。 それに振り回されている夏侯惇も、変わることはなかった。 「その時、会ったのか・・・」 「そうだ・・・。あの時、お前は、俺に、幾人か女を連れてこいと命じたな・・・。俺は、そんなお前の言葉に従い、女を捜しに行った。あの時、6人の女をお前に差し出したが・・・。実は、あの時、俺が探してきた女は、全部で7人いたのだ・・・。つまり・・・」 「一人、お前のものにした・・・ということか・・・」 「・・・そういうことだ」 幾人もの女の中で、なぜ、あの女だけであったのか・・・。 目を奪われたのは、全身が震えるほどの衝動に駆られたのは、なぜ、あの女だけであったのか・・・。 今となっても、その答えは見つからない。 すぐにその国を離れると知っていても。 この女を連れて行くことは出来ぬと知っていても。 感情を止めることなどできなかったのだ。 「名はなんという。その女の名は」 夏侯惇は、杯の中の酒に人差し指を軽く浸らせる。 そして、それを床に持っていくと、何か文字を書き始めた。 「 麻美 麻美。 酒で書かれたその文字は、美しく月の光を映していた。 「麻美・・・か。よい名だ・・・。美しかったか、その女は」 「ああ・・・」 「そうか・・・」 「気分を害したか・・・。孟徳」 何はともあれ、夏侯惇は、曹操のものになるべき女を奪ったのだ。 曹操が気分を害すとしても、それは当然のことかもしれない。 「・・・」 「孟徳・・・」 黙り込む曹操に、夏侯惇はその名を呟く。 「よい。女の一人や二人、お前にやろう。だが・・・」 「だが・・・?」 思いがけぬ曹操の言葉を夏侯惇は聞き返した。 「お前のこれからの人生、俺に託せ」 「フッ・・・。よかろう・・・。俺の瞳から・・・命にいたるまで、すべてはお前のものだ・・・」 「誓うか・・・」 穢れなど、ものともせず、ただひたすらに自分を信じる瞳がそこにはあった。 夏侯惇が惹かれた瞳である。 曹操の言葉に対する答えは決まっている。 それは、遥か昔から。 たとえ、これからどのようなことが待ち受けていようとも。 やがて天下をとるであろう曹操の後ろを歩いていく。 この男が天を欲したのではない。 天がこの男を欲したのだから・・・。 「誓おう・・・。この夜空を司る、月読にかけて・・・」 それは、あまりにも気高い誓いが交わされた、風のない月読の夕べであった――― |
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